「旅の愉しみ」 「日 々の 愉しみ」 「単 身赴任者の愉しみ」 「落 ち穂拾い」 新 エッ セイ・シリーズ エッ セイ No.2「気まぐれニッポン探検」 エッ セイNo.2「日本を考える」
エッセ イNo.1  人生の愉しみを巡る エッセイ

新エッセイ・シリーズ


(2005.6.16開設)
ここには、最近・今後、執筆した・するエッセイを収録していきます。
乞う、ご愛読・ご期待。


目次

番号

タイトル


掲載日

関連先リン ク
(クリックするとつながります)
13  伴奏と無伴奏 
2007/05/10作
2010.4.12   音楽ドラマ観劇
12  トカイワイン
2010/4/11作 
2010.4.11  エッセイ「スキーとワインと小話と」
11 叔母の思い出話
2009.7.29

1

自転車を描 く


2005.6.16

水彩画の部屋「アラスカ自転車 ツアー」

2

マイホームシア ター
2005.8.2
エッセイ「スクリーン遠望」
音楽・ドラマ・映画の部屋
3

我 が家の庭の生き物たち
(動 物編)
2005.9.26
エッセイ「わが家の 庭でBW」
4

我 が家の庭の生き物たち
(植物編)
2006.1.27
エッセイ「自然への憧憬」
5
 
絵の取り持つ縁
2006.3.26
水彩画の部 屋「ア ラスカ自転車ツアー」
「ク ロスカントリー」

6

私のホームページ

2006.5.22
「阿部毅一郎のお愉しみ コーナー」

7

ことば遊 びの楽しみ
2006.7.20
「ことば遊びの部屋」

8

スキーとサイ クリング


2006.10.5
スポーツの部屋

エッ セイ「単身赴任者の愉しみ」

9

トロンハイムのラズベリー


2006.11.29


10
 
「継続は力なり」ー当協会の事業を巡って

 
2007.4.28

アーカイブズ(仕事編)財団法人自転車産業振興協会時代




 

伴奏と無伴奏

2007/05/10作
 
 
  (解説) このエッセイは、今日、ホームページに掲載しているエッセイの冒頭部が欠落しているのを見つけたので、その部分を捜し出そうとしてパソコン内を歩き回っていたらたまたま発見したものである。ということで、ここに掲載することにした(2010.4.12)。  
 


かねてから、どうしてSonata for violin and piano やSonata for cello and pianoをバイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと訳すのか、疑問に思っている。たまに、バイオリンとピアノのためのソナタ、あるいはチェロとピアノのためのソナタと表記されるのを見ないわけではないが、圧倒的に前者のケースが多い。

先日、知人のお嬢さんのバイオリン・コンサートがあって、演奏曲目には、ベートーベン、メンデルスゾーンらのバイオリン・ソナタが並んでいた。いずれも、名曲の誉れが高い曲である。傍らで聴き入っていた妻に、一曲目が終わったところで、「バイオリン・ソナタという曲名から、バイオリンが主で、ピアノが伴奏(従)という意識で聴いていなかった?」と訊いてみた。まさしく、そうだという返事が返ってきた。「でも、原題は、Sonata for violin and pianoで、バイオリンとピアノを対等に扱っているんだよ。二曲目はそのつもりで聴いてみたら」とサジェストした。

二曲目が終わったところで確かめたら「これまでとは、違って聞こえてきた。これまでは、知らないうちにバイオリンが主で、ピアノは伴奏のようなつもりで聴いていたが、ピアノが、バイオリンと対等に渡り合っているのが、よくわかった」という。

日本的な表記では、どうしても、バイオリンが主役で、ピアノは従、伴奏、その引き立て役というように、知らず知らずのうちに、思いこまされてしまう。しかし、実際は、バイオリンが第一主題を提示すれば、ピアノが第二主題を提示するといった風に、対等の二者がお互いに一歩も引かず、絡み合い、自己主張し、くんずほぐれつわたりあうと同時に相手を立て、共鳴しあい、得も言われぬ調和のとれた音楽を創造するところに、ソナタの良さはあるのであって、一方が主で、他方が伴奏というわけではない(もちろん、ピアノが伴奏的な役割を果たす曲がないわけではないが)。それでは、面白みに欠ける。

世界的なバイオリンにストには、世界的なピアニストを配するのもその故である。演奏者のレベルが違うと、作曲者が狙った本当の曲の良さは出ない。

こうした訳し方を長年続けていること自体が、日本の文化であるが、こうしたことが行われる背景に、日本文化が厳然と存在しているように思える。つまり、何事にも、序列をつけ、目上、目下、主、従をはっきりさせる文化である。なかなか全く対等なものの存在を認めたがらない文化である。対話が、けんか腰にならず(モンテーニュ「けんか腰でない対話ほどつまらないものはない」)、しゃべる方の人と、聞き役、相槌を打つ人になりがちな文化である。狂言のタテとワキ、一年の差でも、先輩・後輩になり、先輩を立てる文化である。パートナーという役割が理解されにくく、夫婦茶碗や夫婦箸にも大小を無意識のうちにつけてしまう文化である。儒教の有名な五倫という人間の基本的関係は、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友であり、はじめの四つの関係は縦の上下関係とされ、朋友だけが横の関係だが、知らず知らずのうちに、こうした上下関係重視の儒教的なものを反映している文化である。

日本の音楽の伝統にも、対等な楽器が絡み合うものはない。箏曲、地唄にしても、主ははっきりしている。

こうした文化を背景として、無意識のうちに、Sonata for violin and piano やSonata for cello and pianoをバイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと訳してしまったのではないのか。ピアノを無意識のうちに、伴奏、引き立て役と思いこみ、訳語のうえから、ばっさり削ってしまったのだ。ところが、PIANO TRIOは、ピアノ三重奏曲と訳さざるを得ない。ここでだけピアノはむしろ主役を張っているかのようだが、バイオリンやビオラと並んで、Sonata for violin and piano やSonata for cello and pianoの中でも、主役を張っていることに変わりはない。

つい、最近気づいたことだが、VIOLIN SOLO やCHELLO SOLOが、無伴奏バイオリン・ソナタ、あるいは無伴奏チェロ・ソナタと訳出されていることである。これはSonata for violin and piano やSonata for cello and pianoをバイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタと表記した反動である。わざわざ「無伴奏」と断りを入れないと、区別がつかないことからくる苦肉の策である。しかし、ここにも、ピアノを伴奏視する文化が投影されている。

ちなみに伴奏という語を辞書で引いてみると、「声楽や器楽の主奏部に合わせて、他の楽器で補助的に演奏すること。「ピアノで伴奏する」(広辞苑第五版)となっており、無伴奏の項目はない。

 

 
 
 
トカイワイン

2010/04/11作

 
 
 

トカイワインに初めて出会ったのは、1975年から3年間滞在したワルシャワでのことである。

当時、まだ共産主義体制下にあったワルシャワでは、フランス、ドイツからの輸入物のワインは、ドルショップで買わざるを得なかった。幸い外交旅券を持っていたので、無税で買うことができた上に、家には地下に大きな食料庫があったので、気に入ったフランスワインなどは、ダース単位で購入していた。妻が、ワイン好きになったのは、このときのことである。

ところで、一般の店に並んでいたトカイワインなるものを試しに買ってみたところ、値段は安いにもかかわらず、なかなかいい味なのだ。たしか黒い瓶だったと記憶しているが、好みのワインリストに追加した。同じ共産圏に属するハンガリー産であるということで、おそらく格安で輸入できたのだろう。

帰国後、池袋の西武デパートでトカイワインを売っていると言うので、かつての味が懐かしくなり、わざわざ買いに行ったことがある。

トカイワインの印象を決定づけたのは、スキー仲間で、軽井沢に初滑りに行ったときに、当時のハンガリー駐日大使が、トカイワインをワイングラスともども持参され、大判振る舞いされたことだ。21種類もあるというお話もうかがったが、赤も白も美味であった。

最後に出されたのが、三つ星と五つ星の貴腐ワインであった。トカイワインというと、貴腐ワインを意味することもあるそうだから(ものの本によると1650年頃偶然作られた世界最初の貴腐ワインがトカイワインだという)、その甘みとコクと黄金色の色合いは、これがワインかと驚くほどのものであって、大使の温情に感謝しながら、みんなして夜更けまで愉しんだ。ルイ14世は、贈られたトカイ産の貴腐ワインを「ワインの王にして王のワイン」と絶賛したというが、われわれもその言葉に賛同した。

 青木やよひの「ベートーヴェンの生涯」(平凡社新書)に、ベートーヴェンもトカイワインを愛飲していたとある。それに、ベートーヴェンを敬愛していたシューベルトには「トカイワイン」という歌曲があるという。当時はまだハンガリーはハプスブルグ家の領地だったから、トカイワインはウイーンで手軽に手に入り、人気だったのだろう。

 先月、コペンハーゲンからの帰りの航空便で、隣に座った女性は、ストックホルムに1年滞在して帰国の途上にある人だったが、滞在中にハンガリーに旅行し、トカイワインがことのほか気に入り、その時購入したものを一本土産に持ち帰っているということだった。きっとこれは、貴腐ワインの五つ星クラスに違いない。

別れに、例のトカイワイン、じっくり味わって飲んでくださいねと言ったことだ。

 
 
  世界遺産に指定されているトカイのワイン産地(ハンガリー)
トカイのワイン産地の歴史的・文化的景観(2002年指定)
↓ 
 
   
 

叔母の思い出話

(2009/7/29作)
2009/07/29掲載
     
 母の13回忌の法事で田舎に帰ったときのことだ。

法事後の宴席で、母とは10歳も年の違う妹、つまり、私にとっての叔母が、面白いことを言い出した。

子供の頃の私に何かやらせることほど、易しいことはなかったと言うのである。

「えっ?」と驚く私に、叔母は、「きいちゃん(わたしのことだ)は、これはしーきらんじゃろ(できないだろう)」と、ひとこと、言いさえすれば、わたしはムキになって、なんでもやったと平然としている。

その言葉に、わたしは、痛いところをぐさりと突かれたような気がした。さすが、叔母である、わたしの性格を的確に見抜いていたのだ。

叔母は、母とは、10以上も歳が離れていたが、5人兄弟のなかで、女は二人だけだったこともあり、母とは生涯仲が良かった。若い頃から我が家に良く出入りしていたし、私が上京した後は、母と二人であちこち、国内旅行に出かけたりしていた。


背がすらりと高く、きれいな人で、私にとっては、女性の美しさを初めて感じた人だった。小学生時代、こんな美しい人でも、便所に行くんだ、と発見したときの驚きを今でも覚えている。

小学一年の冬、学校で、冷たい水で雑巾がけをしなければならない掃除当番の日があった。ただでさえ、冷たい水は手に染みるのに、その日は、両の手のひら一面に、つぶれた大きなまめがあった。水につけたら、じーんと染みた。堪えかねて、濡れた雑巾を指先でつまんでサボっていたら、担任の先生に見つかり、男らしからぬ神経質な叱責を浴びせかけられた。冷たい水が遠慮なく染みるのを我慢して泣く泣く雑巾がけを続けたものだ。そのせいでその先生の名前も、その日の情景を今でもよく覚えている。

今にして思えば、その手のひらいっぱいの豆こそ、「きいちゃんは、しーきらんじゃろ」という言葉に乗せられた結果に違いなかった。

当時の我が家の井戸は、玄関のすぐ脇にあった。中継ぎのポンプ付きで、深く、長い鉄製のハンドルは、子供なら全体重をかけてぶら下がり、なんとかやっと動かすことができるほど、重かった。井戸のすぐ側に、セメント製の水槽を二つ重ねたタンクが立っており、そこにいったん井戸から汲んだ水をあげて蓄え、そこから、20メートルも離れた台所と風呂場に水道管で送る仕掛けになっていた。

小学一年のクラスでも、小さい方から2、3番だった私は、その重い井戸に挑戦して、その日は、風呂桶いっぱいの水とタンクいっぱいの水を汲んで、母や姉たちや叔母を驚かせたのである。おかげで、てのひらいっぱいの豆ができ、無残にもつぶれたのであるが、家族には黙っていた。その翌日が、折悪しく掃除当番の日だったのだ。

5人兄弟のなかで、ただ一人生き残っている叔母も、今では、惚けが進み、もう、きいちゃんの思い出を語ってくれることもかなわなくなった。

(2009/7/29作)




トロンハイムのラズベリー

(2006.11.29)
(the bicycle November 2006 vol.22 掲載のものに一部加筆訂正)




 

トロンハイムと聞いて、サイクルリフ トに思い至る人は、かなりの自転車通である。
 
 自転車関係の仕事に携わるようになってから、とあるホームページに「ノル ウエーのトロンハイム市は坂の多い町だが、『サイクルリフト』とよばれるユニークな自転車運搬手段を導入して効果をあげている。サイクルリストは自転車に 乗ったままリフトの踏み板に足を置くだけで、坂道の下から上まで自動的に押し上げられる。」という記事を見つけた。あのトロンハイムに?とまず思った。と いうのも、この街に、私の唯一のノルウエー人の友人であるH夫妻が住んでおり、かねてから、ゲスト ルームを作ったので、是非来泊するようにと勧められていたからである。

夫妻とは、10年ほど前欧州か らの帰りの飛行機で奥さんのアンドニアさんと隣り合わせたのが縁で知り合いになり、筑波の研究所に共同研究で滞在していた夫のビヨルンともども、明治神宮 や皇居などに何度か同行したこともあり、我が家に泊まってもらったこともある友人だった。

何とか訪ねられないものかと思っていたところ、この夏、その機会に思いがけず恵まれた のだ。

私が委員になっているUCIの トラック委員会が、ベルギーのゲントで、8月に開催されることになった。時節は夏休みのシーズンで はないか。委員会の終了後、夏休みをかねてちょっとトロンハイムに脚を伸ばしてはどうだろうか。そう思いつき、メールでH夫妻の予定を確かめたら、ショートノーティスにもかかわらず、大歓迎との返事が返ってきた。

ノルウエーには、これまで一度も行ったことがない。早速「地球の歩き方」を買って勉強 し、旅行計画案を作った。その案をメールでH夫妻に送ってアドバイスを貰い、少しずつ練り上げて いった。訪問先は、トロンハイムは当然として、フィヨルドで名高いベルゲン、首都オスローとし、トロンハイムでは夫妻宅に泊まらせて貰うことにし、他のホ テルはインターネットで予約した。順序は、H夫妻の予定に合わせて、ベルゲン→トロンハイム→オス ロとした。アンドニアさんが、パーフェクトという計画が出来上がった。しかも、彼女は、トロンハイムでのベストの過ごし方を考えておくということだった。

港町のベルゲンでは、一日コースのツァー“Norway in a nutshell”を楽しんだ。ベルゲン鉄道、フロム山岳鉄道、最深(1304M)、 最長(204KM)、最狭のソグネフィヨルドのクルージング、山の急斜面を駆けめぐるバスの旅な ど、まさにノルウエーの見所凝縮版ツァーといった趣で、息をのむような景観の連続を、十分堪能できた。そのほか、世界遺産のブリュッゲン、魚市場、好きな 音楽家のグリーグの家も訪れた。

トロンハイムでは、メールで指定されたバスストップで降りると目の前にアンドニアさん の懐かしい笑顔があった。メールと、携行したケータイで、今やピンポイントの待ち合わせが可能なのだ。妻は彼女と抱き合って再会を喜び合った。

そこは、市のセンターに近く、彼女はその足で早速市内案内を始めてくれた。

普通の観光案内では行かないところよ、彼女が言うように、市で一番古い道とか、銀行や 図書館の地下に保存されている遺跡などを抜けて、市の中央広場に出た。真ん中にノルウエーを建国したオラヴ王の銅像がそそり立っていた。

トロンハイムは、ノルウエーが、997 年に建国されたときの最初の首都なのだ。ちなみにここからベルゲン→オスロと首都は変わったのだ。今でこそ人口16万(それでもノルウェー第三の都市)の小都市だが、この 広場や北欧で一番大きい木造建築である王宮にしても、ニーダロス大聖堂にしても、かつての首都を偲ばせる立派な建造物であった。

広場東手のニデルヴァ川にかかる名物の旧市街橋(はね橋)から眺めた川岸の中世の倉庫 類が川面に映った景色は、忘れがたい。まったく波一つなくパーフェクトの反射像で、アンドニアさんもこれまで一度もみたことがないという。その後、何度か 同じところに立つ機会があったが、どうしても小波が立ち、反射像の一部に乱れがあった。

そのはね橋を越えたところに、サイクルリフトがあった。彼女は、私が自転車関係の仕事 に携わっていることをメールで知り、ちゃんと案内リストに加えてくれていたのだ。長さは150メートル程度だろうか。二本のレールの間に挟まったリフトの 踏み板に自転車に乗ったまま右足をかけて、坂を上るのだ。ちょうど若い女性が使っていたが、終点の少し手前で、転んでしまった。最後まで行く着くにはかな りの体力が必要なようだ。

郊外にあるH夫妻の屋敷は、緑 の芝生の庭に囲まれたゆったりした平屋で、半地下にシャワー・トイレ付きのゲストルームがあった。庭には、数えてみると30本もの大木があり、美しい花々の咲き乱れる花壇があり、ベリー類の畑があり、庭の改修工事のために持ち込 まれた大きなブルドーザーが置かれていたが、少しも手狭な感じはしないほどの広さなのだ。

 

その夜は、市の中心地域に住む息子さんも呼んで夕食会を催してくれた。彼も11年前我が家を訪れてくれたので旧知の仲である。

夫のビヨルンは、トロンハイム工科大学の学部長に昨年就任したということで、明日の入 学式には、スピーチをしなければならないという。そんな日に我々を迎え入れ、大学から帰ると早速トイレの水回りの故障を直し、平然としているのだ。

翌日は、彼女が優先順位トップという山荘に案内してくれた。車で片道2時間の距離、標高800メートルの山中にあった。北 緯60度を超す地点のこの高さである。周りは、まさに日本の高山植物の花畑さながらであった。小雨 も降り始め、気温は12度から14度。持参 したヤッケを着て、歩き回った。

ノルウェーは、今年の夏は100年 来の猛暑だったということで、彼女も初めてというほど赤紫色のヒースの花が咲き乱れ、ブルーベリーをはじめベリー類は大豊作だった。

我々は、奇妙な形にねじれた小灌木の間を縫い、そこここにある熟れて甘酸っぱいベリー をつまみつつ、沼に沿って歩いた。足下はコケ類にびっしりと覆われており、ふかふかして気持ちが良い。彼女は、水温計を持参していて、あちこちで、水温を 測ったが、14度ないし16度であった。20度あれば泳いで見せられたのにと、彼女はいかにも残念そうな顔をした。

山荘は大きく、かなりの人が泊まれそうだった。ペンキ塗りは夫婦の共同作業だし、壁一 面のノルウェー中から拾い集めた鉱石で作ったオブジェやカーテンをつるした飾り棚などすべてビヨルンの手作りだという。

富士見と名付けられた部屋が設けられており、浮世絵から置物、扇子、のれんなど、日本 から持ち帰った富士山のコレクションが溢れていた。次回は是非ここに泊まって欲しいといわれた。

山荘から市内に戻ると嘘のように快晴だった。入学式の日だというのに、ビヨルンはいつ も通り4時には帰宅し、これからオリエンテーションへ行くと言う。この時季、9時過ぎまで明るい。アンドニアさんの運転で、会場の森まで車で行った。

参加クラブの色鮮やかなユニフォームに身を包み、コンパスと12,500分の1の地図を携行し、エネルギー補給用のバナナを一本持って、ビヨルンはスタートした。毎週開 催され、出場者300人にも達するという。森や草原に設けられた8つのチェックポイントを、どれだ け速く回って来るかを競うアウトドアスポーツで、ポイント通過時刻は、各自の磁気カードに記録されるので、スタート時刻は各人が自由に決められるのだ。

さて、我々残されたものはどうするのかと思っていたら、アンドニアさんが、用意した籠 をめいめいに手渡し、道路の傍らに入り込んでラズベリーを摘もうという。

ラズベリーも豊作だった。道からさほど入らなくても、すぐ見つかるのだ。丈2フィートほどの背丈の草に、赤い柔らかい実がついており、食べてみると、上品な甘さがあっておいしい。たち まち見つけ方、摘み方にも慣れて、夢中になって摘んだ。まさか、ノルウエーの森でラズベリーを夢中になって摘むことになろうとは思わなかった。1時間半も摘んだろうか。ゴール地点に戻るとビヨルンが、同じクラブのライバルに1分勝ったと赤く上気した温顔をほころばせてやってきた。

摘み帰ったラズベリーは、アンドニアさんが夕食後、たちまち8つの中瓶分のジャムに仕 上げた。1.2本是非持って帰れというのだ が、大きすぎるし、重すぎるので、小瓶2本分だけいただくことにした。

ゲストルームの隣に大きな貯蔵室に、こうしたベリー類のジャムやキノコの瓶詰め、ハ ム、ソーセージなどぎっしり貯蔵してあった。大雪で閉じこめられても、これなら、春まで持つだろうと思えるほどの量だった。山荘の台所の地下にも人が入り 込めるほどの大きな貯蔵庫があった。

アンドニアさんは、これまでも日本から大勢のお客を迎えたが、お客が来ても、いつも通 りの生活を全く変えないという。今回も、まさしくそうだった。朝夕の食事も普段のまま、自分たちのスケジュールはきちんと守って、まったく変えず、三日目 のように、勤務先の小学校の始業式でアンドニアさんも同行できないときには、バスの乗り方を教えて、勝手に市内観光でもどうぞ放り出す。その方が我々も気 楽で、本当にまた来てもいい気になり、その旨、二人に言いもした。

ノルウエーは、人口はわずか460万 人の小王国に過ぎないが、グリーグ、イプセン、ムンク、ヘイエルダール、ナンセン、アムンゼン、ヴィーラゲンなど文化面では多くの巨人を生み出しており (今回の旅行でこれらすべての巨人の博物館・美術館などを訪問できたのは幸せだった)、世界政治や経済面でも、存在感は大きい。こうした見栄や虚栄に走ら ない堅実な人々が、背後からしっかりと国を支えているからに違いないと思った。

持ち帰ったラズベリー・ジャムを、貴重品のように少しずつパンにつけて食べ始めると、 遠い遠いノルウエーの大自然が、またそこに暮らす、親切で質実剛健そのものの人々、とりわけアンドニアさんやビヨルンの姿が懐かしく浮かんでくるのであ る。

 

 




ス キーとサイクリング

(2006.10.5)
(the bicycle September 2006 vol.21 掲載)





  今年も元旦は妻ともどもスキー場で迎えた。これで10年連続になる。すっかり我が家の恒例行事になってしまった。二人とも、スキー好きではあるが、腕前は 大したことはないし、年季もそれほど入っていない。というのも、文字通り五十の手習いだからだ。

  年号が平成に変わる頃に、札幌に単身赴任した。札幌に来たからには、また来たくなるものを身につけたい。そこで選んだのがスキーである。スキーが身につけ ば、スキーのメッカ北海道、札幌に、毎冬帰って来たくなるだろう。そう思ったのだ。

  身につけるとはいえ、チャンスは1シーズンしかなかった。そこで必死に練習した。土日には欠かさずスキー場に出かけ、指導員の手ほどきを受け、跡をなぞっ て滑った。腕前は、ポーランドに滞在した10年前に子供相手に緩斜面を滑った程度のビギナー同然だったから、スピードが出すぎるとうまく止まれない。顔面 制動でやっと止まったことも何度かあって、額に傷を作り、眼鏡を壊しもした。それでも懲りず延べ25日も滑った。

  猛練習の甲斐あって、滑り始めた日には、絶壁に思えた札幌オリンピック男子大回転のコースもなんとか降りられるようになり、3月末に札幌にやって来た妻に 披露した。

 その妻を伴って、サホロ・スキー場のクラブMEDにも行った。道央にある、バカンス先進国フランスのソフトの入ったリゾート・クラブである。朝昼晩のフ ル・アコモデーションで、一日中飽きさせない工夫が随所に施されており実に楽しいところなのだ。スキーのインストラクターも世界中から集まってきており、 初級者から上級者まで小人数のグループに分け、懇切丁寧に教えてくれる。一度行ってとても気に入ったので、妻にも紹介したかったのだ。

 当初は、わたしが滑っている間は、読書でもしていると言っていた妻も、まったくのビギナー向けのレッスンもあるというので、試してみる気になった。彼女 もポーランド以来のスキーで、私同様ビギナー同然だったが、クラブ(インストラクター?)とスキーの魅力にたちまちとりつかれ、ここに毎年連れてきてくれ るなら、スキーを再開してもいいと言い出した。スキー行きには、たとえ下手であろうと連れが欠かせない。もちろん、ただちにOKした。

 クラブMEDにも、10年以上通った。札幌にも、帰京後もほとんど毎冬一回か二回スキーで訪れた。そして、10年前からは、年末年始をスキー場で過ごす のが我が家の恒例となったのである。

 年間多くて20日間、少なければ5日間程度しか滑らない。しかも、今や二人とも還暦を過ぎてしまっている。それでも、少しずつうまくなっているのだ。今 年の正月に行った越後湯沢の石打丸山スキー場でも、ほとんどすべてのゲレンデを一緒に滑ることができた。3年前はこうはいかなかったのに。

 昨年泊まった宿のオーナーが、たまたまスキーのジュニアのナショナルチームのコーチだった。明るい話好きの人で、内外の有名スキーヤーとの交流ぶりの話 などを伺い、各国のエンブレムなど様々な記念品や写真なども見せてもらった。無類の釣り好きでもあり、釣果の一端のごちそうにもあずかった。

 わたしは、前年、自転車関係の仕事についていたので、一つだけ確かめたいことがあった。ほかでもないスキーとサイクリングの相性である。スケートとサイ クリングの相性はとみに有名であるが、スキーとの相性は話題にも上らない。私には相性がいいように思えるのである。私が尋ねると、

 「まったく、相性がいいんですよ。」

 オーナーは、待っていましたと言わんばかりに、膝をたたいたのだ。

 「選手には、オフシーズンには必ず自転車に乗るように勧めています。脚力の鍛錬にいいのは当然として、滑るときの視点の角度、体の前傾、カーブのときの 体の傾け方、全部自転車と同じですよ。特にカービング・スキーが開発されてからは、体を倒して曲がりますが、自転車もまったく同じです」

 これほど、明快な回答が返ってくるとは予想していなかったが、やっぱりそうだったかと納得した。

 スキーでは、スキー板のエッジをカーブさせるこのカービング技術が開発されてから、滑り方が一変してしまった。初心者でもかなり簡単に曲がることができ るのだ。スキー板自体が、かなり短く、しかも軽くなったので、扱いやすくなった。私も以前は193センチのものをはいていたが、今の板は、160センチで ある。もっと短くてもいいらしい。

 スキーに初めて行ったのは、もう四十年も昔になるが、当時に比べ、いや、札幌赴任時に比べても、スキーウエアから、スキー靴、スキー板、ビンディングな どのスキー必需品が、すべて信じられないくらい、進化を遂げている。

 スキーのほかに私がいまもたしなんでいるスポーツに、テニスとゴルフがあるが、この両スポーツでも、用具類の恐るべき進化がある。ラケットやクラブの フェイスが大きくなり、弾力性、剛性も増し、しかもほとんど手入れを要しなくなった。

 こうした用具類の進化が、体力の向上と相まって、スポーツのレベルを高度化させ、やる人のみならず、見る人の楽しみも増大させているが、逆に、加齢に伴 う体力の衰えも補ってくれる。わたしがこの歳で、3つものスポーツを楽しめるのも、そのおかげである。

 その何よりの証拠は、自分のスポーツ歴で、我が生涯最良の年と言いうるのが、還暦を過ぎた2002年であることだ。その年、スキーでは、ハニカム構造の 軽いカービング・スキーを携えて、ゲレンデの全長が600kmもあるフランスのクーシュベルまで脚を伸ばし、標高3400mに達するスロープを10日間も 滑りまくった。テニスでは、40年間も在籍しているクラブの対外戦で最多勝利を挙げ、最高殊勲賞をいただいた。ゴルフでは、123人も参加した大きな大会 で初参加以来21年目にして悲願の初優勝を果たせた。

 今のところ、この三つで手一杯だが、サイクリングは、スキーとの相性もいいし、脚力を鍛える意味でテニス、ゴルフにもいいようだ。日本では、循環器系の 疾患が死因の上位を占めているが、循環器を鍛えるエアロビクスとしても最良で、寝たきり老人にならないための腸腰筋の鍛錬にも最善だという。軽量で高機能 の自転車が続々と開発されていることだし、この歳で私が更に四つめのスポーツに手を出すとすれば、サイクリング以外にはあり得ないようである。


エッセイ「単身赴任 者 の愉しみ」


ことば遊びの楽しみ

(2006.7.20)
(the bicycle July 2006 vol.20 掲載)




 


 あなたの人生訓は?と聞かれたら「焦らず 勉強 気長に 生きて 血の沸く

 ロマンの 詩(う た)も忘れず」と答えることにしている。「不言実行」「初

心忘るべからず」な どの成句、ことわざの類を期待していたらしい相手の顔に、

ちょっと意外だと いった表情が浮かぶ。そこで謎解き。生来、ことば遊びが好き

なものですから、人 生訓も、名前の「あべきいちろう」を折り込んで、自ら作り

ました、と。


 新書ブームのようである。昔は岩波新書ほか二三に過ぎなかったのが、大手の

出版社はもとより、 中小の出版社も、競って新書を出し始めたので、その数は優

に十を超える。新書 老舗の岩波書店も、負けてはおれぬとばかり、新赤版1000点

突破リニューアルと 称し、今年の4月から、マークを刷新し、月に10冊も発行

するようになった。 5月分のなかに阿刀田高の「ことば遊びの楽しみ」という本

を見つけた。その場 で即、購入した。リニューアルシリーズでの購入第一号となった。


 まあ、それくらい、「ことば遊び」ということばに弱い。私の書棚には、鈴木

棠三の「新版ことば 遊び辞典」東京堂出版1981年(1114頁、定価5974円)、大塚

邦雄「ことば遊び悦 覧記」河出書房新社 1976年(190頁、定価2500円)、土屋

耕一「土屋耕一の一 口駄菓子」誠文堂新光社、1981年(292頁、定価2500円)

などが並んでいる。 どの本も、この道の泰斗の大変な力作である。少々値は張っ

たが、ことば遊びが 好きなので、つい手が出てしまった。


 阿刀田は、日本では、昔からことば遊びが盛んだが、日本語には言葉を構成す

る音が少ないため、 いきおい同音異義語が多い。そこからことばのしゃれが生ま

れ、ジョーク、落語 の地口落ち、小ばなし、川柳・狂歌・都々逸などと発展し、

盛んになったのだろ うという。拙作の<柿と牡蛎 描きたる花器に垣の花卉> <遺

子に石の意志をと縊死せし医師の遺志> なども同音異義語が多いからこそできるわけで

、うなずける説だ。


 鈴木の辞典では、ことば遊びを、なぞ(二段なぞ
/三段なぞ/考え物/やまとこ

とば)、しゃれ(地 口/しゃ れことば/むだ口/無理問答)、戯語(回文/舌もじ

り・早ことば)その 他に分類している。


 しかし、もちろんこの分類がすべてではない。阿刀田も言うように、ことば遊

びには果てしない広 がりがあるのだ。何せ遊びなのだから、いくらでも新しい遊

びを創り出せる。私 はホームページに、「言葉遊びの部屋」 を設け、自作をあれ

これと紹介している が、その中には、他であまり見かけない類のものがある。た

とえば、「“あいう えお”と“あかさたなはまやらわ”をクロスした短詩」などがそれで

ある。ア行からワ行 までを折り込んだ次のような短歌も二三系列紹介している。

(ア行)<溢れ出ず 命の叫び 歌にして 描く が我の 大いなる夢> <暁に 命

果つとも 空蝉の 悦楽極めん 御身 と今宵>…(ワ行)<湧き上がる 命の泉 麗し

も 絵空事なる 女と男>


 人間は、ことば抜きには生きられない生き物だ。他の動物と比べこれだけ進歩

したのも言語能力を 身につけた賜物とされている。だから、人間である以上、知

らず知らずのうち に、ことばで遊ぶようになってしまう。しゃれ、駄洒落の類を

一度も口にしたこと のない人はいないだろう。


 子供でも知っている「いろは歌」も、ことば遊びの最たるものだ。かな
48文字

をすべて一度だけ 使っているので、阿刀田のように48字歌と名付けてもいい

が、中村菜花群さん のように3000首も作った人もいれば、棋士の中山典之六段の

ように1000首以上も作った人もい る。可能性は思いのほか広いらしいが、わたし

は、かろうじて一首 作った。

<遍路を行けば霧立ちて我さすらいの身 ぞ悲し骨置く山背遂に越え会えぬ人呼

ぶ目も潤む>


 私のことば遊び好 きは子供の頃からで、ことばをあれこれひねくり回して遊ん

でいた。それが俳句 短歌詩歌詞川柳にもなり、いわゆる「ことば遊び」にもなっ

ただけのことで、私 の頭の中では両者の間に垣根はない。小学生の頃から、こと

ば遊び系のラジオ番 組「20の 扉」「とんち教室」、落語、漫才、講談、浪曲の

ファンだった。中二 のときには、学芸会で落語の独演をやったこともある。


 三段なぞを作るのも好きだったから、札幌に単身赴任したとき、「単身赴任と掛けて何と
とく」という謎
を作って長い夜の慰みとした。

(答え)「単身赴任とは、穴の開いたアコーディオンを弾くような ものだ」

(その心は) 「穴を指で押さえたり、ガムテープを張ったり、い ろいろ工夫すればなんとか
美しい音を出せるようになるだろうが、しょせん穴の開かないアコーディ オンには勝てない」        

(答え)「単身赴任とは、海底遊覧船に乗って海底を見ているよう なものだ」

(その心は) 「確かに、海底にも素晴らしいところは多いが、海 上に戻れると思わなければ、
遊覧船には乗らないし、海底の美しさを味わうゆとりもない」         

(答え)「単身赴任とは、手作りのドーナツのようなものだ」  

(その心は) 「出来立ての熱いうちは美味しいが、直ぐ堅くなっ て食欲があまり湧かなくなる。
真ん中に大きな穴がぽっかり開いているが、それがなければドーナツ ではない」

 

 その札幌では、地 名折り込みの短歌をいろいろ作った。一度折り込んだ地名は忘れ
がたく、時々なつかしく思い出す。

<朝ぼら け 馬上の女(ひと)は 白き歯で りんごをかじる 白樺の道>(網走市)

< 我が旅の 尽きせぬ思い 語らえば 長き一夜も いつか白らみぬ>(稚内)

< 幸祈る 妻の便りを ポケットに 炉端で憩う 幸せのとき>(札幌市)


 故郷の島原市を折り込んだものは、地元の新聞に紹介されたこともある。

 <清水湧 き真鯉は泳ぎバラ香る楽土さながら島原の町>

  <芯強く真心あつくバラの肌来世までも島原の女(ひと)>


 川柳では、駄洒落川柳を得意とし、パソコン通信時代、歌句会の合評会では、

駄洒落川柳の大家と 称され、作者名はいつもばればれだった。二三紹介しよう。

<出る杭になるまいとして 悔いが出る>

<分かり合うはずの対話で 渡り合う>

<手際よさ見せぬ手際の手 際よさ>

<先送りしているうちに野 辺送り>

<管を巻き酔いからさめて 尻尾巻く>


 甥や姪の結婚式では、お名前拝借祝い歌を贈ることにしている。すぐ上の姉の

長女のとき、スピー チの中で披露したのが最初である。

<(なか)中 身濃い(やま)大和撫子(み)魅力的(ど)どこから見ても(り)

理想の新婦> と 新婦の姪を持ち上げ、新郎の名前を拝借して <(み)見るからに

(た)頼り甲斐ある (に)憎い人(ひろ)博之さんへ(ゆき)行きますわたし>

と新郎への新婦の想 いを歌いこんだ。これが好評で、その後、是非にと頼まれたこ

ともあり、甥姪の結 婚式ではほぼ定番化している。


 妻の両親の喜寿の祝いの際には、<末永き 栄華を祝う 喜寿の宴 大気清澄

 慶雲たなびく >という祝い歌をカラー刷りで献上した。「喜寿の宴」をは さん

で義父の名前「すえ たけ」を折り込んだものだ。両親は、ことのほか喜び、額に

入れて飾ってくれた のだが、あれからもう10年、その両親も今は入院中で、主の

ない部屋にその額が ぽつんとかかっている。


 土屋書には「この言葉あそび、さて、どうやって作るのか、という質問をよく

受けますが、とにか く努力、でしょうかね。別に、これといった才能を必要とす

るとも思えないし、 技術でもないし。ま、ヒマを見つけて、コツコツ作るしかな

い」(p58)とある。

 3000首もの48字歌や、阿刀田書に紹介されている547字もの回文などは、さすがに
“これといった才能”がなければ作れるものではないが、いずれにしても、
好きな道だ。これからも、ヒマを見つけてはコツコツ作り、末永く楽しんでゆき
たいと思っている。

 

 

言葉遊びの部屋




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私のホームページ
 

(2006.4.21)
(the bicycle May 2006 vol.19 掲載)







(2006.5.22掲載)

「人生は愉しみから愉しみへの旅であると日頃考えて おりますが、このホームページは私の愉しみの数々を皆様と分かち合いたいと考えてオープンしました。」

 これは、今から9年前の1997年2月4日に開設した私のホームページ(以下「HP」)* 「阿 部毅一郎のお愉しみコーナー」の冒頭の言葉である。開設以来変えていない。その後に「人生を愉しく過ごしたいとお考えの方、 同好の士、いろんなことに好奇心がいっぱいの方、ど うぞお立ち 寄りください。 盛り沢山のメニュー(部屋) をとり揃えてお待ちしておりますので、ゆっくりとお 過ごしいただければ幸いです」と続けている。

 このHP、宣伝をしたわけでもないが、幸いにし て、開設以来、ボツボツだが途切れることなくアクセスがある。この執筆時点(2006年4月初旬)で総アクセス件数は、47,000を超えている。有難いことに、どなたかが、読んでく ださっているのである。そのどなたかは、「人生を愉しく過ごしたいとお考えの方、 同好の士、いろんなことに 好奇心がいっぱいの方」なのであろうか。私には、 まったくわからない。たまには、知人から「読んでますよ」、と声をかかられることがある。年賀状などで「愉しんでます」などの添え書きをいただくこともあ る。だが、知人だけでは、47,000という数字には達しないだろう。





*「阿部毅一郎のお愉しみコーナー」

 私には、書籍をこれまで3冊*商業出版した経験があるが、いずれも発行部数は1500部にも満たなかった。総計でも5000部 に達しない。生来書くことが好きなので、その他にもできれば出版したいと思う原稿を抱えており、出版社に持ち込んでみたこともあったが、無名の著者(=持 たざる者)の本をおいそれと引き受けてくれる出版社などあるはずもなく、体よく断られた。商業出版になじまないのなら自費出版でもと、原稿募集などの新聞 広告を出している出版社に見積もってもらったこともあるが、千部程度の印刷で優に200万円以上もかかるという。要するに、出版というもの は、恐ろしく敷居が高く、出版社(=持てる者)側に、いわば全面的に取捨選択権があるのだ。

  出版を諦めていたところ、インターネットが普及し始め、しかも、個人名義でHPが開設できるということを知った。私にとってこれほどの朗報はなかった。書 くからには、一人でも多くの人に読んでもらいたい。本を売って儲けようなどとはつゆ思わないが、なにがしか自らを表現する手段を持ちたい。それが多くの知 的生産者の本音なのだ。HPに載せれば、ほとんどコストをかけずにそれが叶うか もしれないのだ。そこで早速HPの勉強を始め、まったく他人の手を借りずに独力で立 ち上げた。

*「文化としての日本的経営」

*その他の著作

 パソコン通信の時代から、NIFTY SERVEの 会員になり、「たまには歌句会」*というフォーラムなどに参加し、メールで短歌・俳句・川柳をフォーラムの掲示板にアップし、チャットで合評会をやるな ど、 パソコン通信には慣れ親しんでいたので、HPの作成自体はそれほど難しくはなかったが、それでも回線がつながり、自分のデザインしたHPがパソコンの画面 にたち現れてきたときは、本当に胸を撫で下ろし、嬉しさも一入だった。

 中身は、全く個人的な愉しみ・趣味の紹介が中心な ので、本当にアクセスしてくれる人がいるのか、最初は心もとなかったが、ポツポツとアクセスしてくれる人が現れだし、HPを開くたびに確実にアクセス件数が増えているように なると、インターネットの向こう側にいるどなたかと確かにつながっている手応えを感じた。そうなると、 HPの更新自体が愉しみになり、自分の愉しみ・趣味の紹 介だけでなく、これまで書いたものなら、日記、論文、評論、小説と何でも取り上げた。描いたもの、撮ったもの、およそHPに載せられるものは何でも載せることにした。中身が充実し、アクセス件数が増えるにつれ、インターネット のすごさを肌身で感じられるようにもなった。


 まったく、未知の人からの
HPを見たというメールがきっかけで、交流・交際が始ま り、中には一緒にテニスをやったり、月一の飲み会の常連になったりする人が出てきた。

*歌句会

*俳句

*川柳


 高名な作家の目にも留まり、「日本にも本当の意味での趣味人がいたんだなとうれしくなりましたね」ととある雑誌に私のHPが紹介されたこともあった*。 そのときには小踊りした。私のこれまでの生き方を肯定してもらえたような気がしたからである。

 まったくの無名に近い人物の私的な愉しみに過ぎないものが、人目に触れ、しかも様々なコメントを 貰える機会があったろうか。高名な作家の目に留まったうえ、雑誌に紹介までしていただけるようなことがあったろうか。16歳 のときの日記に「文無し横丁の人々」という映画の感想を数行書いた*ことが、漫画「ほのぼの君」の作者と一夜盃を交わすことにつながり得たであろうか。偶 然 わたしのHPを発見した有名なノンフィクションライターから、あなたの作詞した母校の応援歌にまつわる感激的なエピソードを是非読んでいただきたいとの メールが届き、著書を恵贈され、六大学野球を一緒に観戦するようなこと*が起こり得ただろうか。

  こうした 経験から、インターネットを 介して、これまでには、およそ考えられない人間関係・ネットワーク・世界が生まれ始めたことを実感した。
*日経ネットナビ1997.10





*1956.11.10、 十六歳のときの日記


*東 大第一応援歌「闘魂は」と「東京大学応援部物語」

 
このHPに初めてアクセスした人向けに次のような案内*を掲示している。

「このHPは、阿部毅一郎(1940年生まれ)という一人の平凡な男の人生の歩みを、生のまま提示したものです。

*
初めての方へ




 縦軸に9歳のときからの日記*を配し、横軸に私の愉しみの数々を配し、およそ、HPに掲載可能なものは、テキストであれ、映像であれすべてオリジナルの まま掲載し、今後も引き続き掲載していくことを通じ、一人の男が生きた、関心を持った領域を、そのまま提示しております。


 このHPを通して、平凡 な一人の男の歩みを、生き様を余すところなく、提示しようという
企 図です。既存の出版などのメディアでは不可能だったこういう試みが出来るところこそ、インターネットの最大のメリットの一つであると考え、1997年から取り組み始めたのですが、いまや、当初の目論見どおり史上初の個人アーカイブスとなり、私家版 全集と呼べるものになってきました。」 

*(僕の絵日 記1949)


 こんな今まで誰もやらなかったことを自分の創意工夫でできるのが、インターネットなのである。「一個人の全的存在のデジタル化」「自分史」 「自分のお墓」のつもりで、
2005年からは、これまでの私的な面のみの 紹介から、公的(仕事)な面の紹介*も始め、その中に現職のコーナーも設けている。

 私がHPを 開設した頃に比べ、現在のインターネットの世界は、更に発展し、多様化・大規模化し、多くの新機能・新機軸を取り込み、既存のメディア、既成の権威、従来 の価値観(例えば、情報・ソフトは有料)とはまったく関係のないところに巨大な知的空間・ネットワークを構築しつつある。むしろ、既存のメディア、既成の 権威と覇を競う新しい権威を持った組織がインターネット上に勃興している。 アマゾン、ヤフー、楽 天、グーグルなどがそれである。個人レベルでも、やる気とアイデアさえあれば、自前で、テレビ・新聞・出版・映画・音楽配信事業、古書店・ギャラリー・各 種商店経営、これまでにないアイデア事業など、なんでもできてしまう。そういう意味で、現在いわば、大きな革命が進行中なのだ。

 その一端に参画しているとまでいえばおこがましか ろうが、一端の端の端のほうにぶら下がっている気がする。

  確かにインターネットに飛び交う情報や、提供されるモノ・サービスは、玉石混交であり、アクセス件数の多寡が、そのまま玉石を見分ける指標にはならない。 だが、アクセス・フリーでありながら、良質な知的情報が確実に蓄積され、良質なモノ・サービスの提供が増加しつつあるのも事実だし、しかも、有史以来の人 類の知識・情報の総量が着実に秩序化へ向かい、玉石を選り分ける機能も確実に進歩している。

  したがって、見る目を持った人がコンスタントにアクセスしてくれるHPを開設し、維持するということは、今や大きな人生の目標たりうるだろう。良書の出版 が人生の目標たりうるように。何かを表現すればそれを必要とする誰かに届く時代になったのだ。しかも、一度デジタル化された情報は、インターネットに子々 孫々の代まで残せるのだ。

 こうした人類の知の総量を増やし、ネットワーク化 する協働作業にささやかながらも携わっているという思いが、今後もHPの更新・維持作業を後押ししてくれるだろう。

 



* アーカイブス(仕事編)


絵の取り持つ縁

(2006.2.28~2006.2.9)
(the bicycle March   2006 vol.18 掲載)





 昨年の本誌5月号(vol.13)に、「自転車を 描く」*というエッセイを掲載したのだが、覚えていらっ しゃ るだろうか。その冒頭に「このところ毎年2月は水彩画書きに忙殺される」と書いた。今、 まさにその2月、今年も水彩画描きに文字通り忙殺されている。

 出品を予定している作品展は、毎年3月初旬(今年は 2日、3日)に開催されるのだが、もう9年も続けて3点ずつ出品しているので今年で切らしたく ない。先月20日の登録締め切り日までに今年も一枚も描いていなかったが、3点出品しますと登録だけは済ませた。その手前、それまでに3枚描かなければな らないが、仕上げたのはまだ1枚切、後の2点は、題材も決まっていない始末だ。おまけに、このエッセイも9日までに書くように言われている。その上、19 日から22日まで北京で開催される日中自転車懇談会にも出席しなければならない。本当に間に合うかどうか、まことに心許ない。

 私は、自転車・サイクリングの素晴らしさに惚れ込ん でいるので、その振興・普及のPRマンを自ら任じ、ことあるごとにPRに努めている。スピーチ やインタビューを求められれば、気軽に応じるし、自らのブログにも自転車コーナーを設けている。私的な会合でも、決まって自転車を話題に持ち出す。そうし た際、昨年描いた絵「ア ラスカ・自転車ツアー」は、大いに役に立った。

 絵をスキャナーでパソコンに取り込んだので、自宅の カラー・プリンターで簡単に増し刷りできる。仕事で関係のある人から、同窓会、同期会、参加し ている各種の同好会・委員会・昼食会、姪の結婚式の同席者、旅先で知り合った人まで、実に多くの人に差し上げた。そのたびに、アラスカの大自然のなかでも 見栄えのする自転車の素晴らしさ・美しさに言及し、自転車・サイクリングを是非よろしくと口を添えた。

 中国では、上海自転車ショーのとき持参し、来賓の昼 餐会でお会いした全員に差し上げた。なかには全国人民大会常務委員もおられたが、サインを求め られた。その方にならってか、他の来賓からも次々とサインを求められたが、快く応じたことはいうまでもない。その後、見学した工場や検査所で、お世話に なったかたがたにも、お配りした。

 UCI(国際自転車競技連合)のトラック委員会の委 員に就任した関係で、スイスの同本部やウイーンのジュニア選手権、モスクワのワールド・カップ 戦にも出かけたが、その際お会いしたUCIの新会長マックウエイド氏をはじめ事務局の人たち、トラック委員会の新旧委員、ヨーロッパ自転車競技会の幹部、 ロシア、ポーランド、ギリシャの自転車競技会の会長や幹部にも、差し上げた。

 これは、自分のできることで、自転車・サイクリング の振興・普及に少しでもお役に立ちたいということから、やっていることである。この欄にエッセ イを書くのも、同じことで、組織のトップが自らエッセイを連載しているということで、少しはこのthe bicycleに関心を持ってくれる人を増やしたいが ために他ならない。トップの人柄・趣味がわかれば親しみを覚えていただけよう。要するに客寄せパンダの役割を果たせれば良いと思っている。

 時々「読みましたよ」と声をかけてくれる人がいると 嬉しい。「毎号、楽しみにしています」と言われると、締め切りに追われながら、原稿料をいただけるわ けでもないのに、深夜までも頭をひねって書いた苦労が報いられる思いがする。

 テーマを自転車に限定しないのは、自転車に関する薀 蓄がほとんどないことが主因だが、それだけではない。the bicycleは、情報誌であるがゆえに、どうしても固 苦しくなりやすい。ちょっとした息抜きのコーナーがあってもいいように思える。まあ、オフィスの一角に喫茶コーナーがあるようなものだ。様々な人 が、この雑誌を手に取るに違いないが、自転車に関心のある人だけでなく、なかにはあまりない人も混じっていよう。テーマが自転車に関係なくとも、目先の変 わったエッセ イに気をとられて、ページをめくっていただければいいではないか。

 ところで、今年描き上げた一枚は、MTBがモチーフ である(「クロスカントリー」)。これが、今年の私の自転車PRマンとしての活動に役立つことを今から願っ ている。

ꀫ@自転車の絵というと思い出すのが、故加藤一画伯 (1925〜2000)である。6年前のこれも2月、たまたま古本屋で画伯の自伝「風に描く」(文 芸春秋社刊1987年)を見つけ、競輪界から転じてパリで画家として成功したという経歴に興味を持って早速購読した。芝白金で開催された個展にも足を運ん だ。風を抽象的にとらえた絵は斬新で感銘を受けた。この風は、ほかならぬサイクリストが感じる風である。その後、自転車に関係の ある今の仕事に付くことになったのだが、画伯が自転車界では知らぬ人のない有名人で、競輪広報大賞まで受賞されているということを知り、自転車と私を結び 付ける 深い縁を感じた。

 昨年読んだ本に「自転車チャンピオン」(未知谷刊  2005年)がある。この本は、ツール・ド・フランスで史上初めて三連覇(1953年〜55年)を成し 遂げたルイゾン・ボベの読み応えのある自伝である。「自転車選手、それは世界で一番素晴らしい職業だ」と言い切る、このルイゾンが、加藤書には、「チャン ピオンのタイトルをもった選手というのは大体いい顔をしている」の一人として顔を出す。

 UCI本部を訪れたとき、私が件の絵を差し上げる と、かつて7度も世界選手権のチャンピオンに輝き、現在WCCでコーチをしているフレドリック・マ ニェさんが、わざわざ、3階に案内してくれた。そこには加藤一画伯の自転車をモチーフにした素晴らしい絵が飾ってあったのである。

 絵が取り持つ縁が、これからも多方面に広がっていき そうな気がしてならない。






*自転車を 描く















*
ア ラスカ・自転車ツアー」

































「クロスカントリー」


我が家 の庭の生き物たち(動物編)(
2005.7.28~2005.8.2)


(the bicycle September    2005 vol.15 掲載)

私 の自然園

歌句会


「我が家の庭には、蝦蟇が棲み着いている」

 こんな話をする と、みんな一様に「へぇー」と驚きの声を上げる。庭とは言いながら、猫の額ほどのものだし、新宿の高層ビル群が見えるほど都心に近いからだ。

 私が育った田舎の 家には広い庭があり、いつも身近に自然があった。だから、25年前、自宅を建てたとき、工面して、狭いながら庭を設けた。それに、コンクリートブロッ ク塀はあまりに味気ないので、道行く人にも愉しんで貰えるようにと、花壇付きの赤レンガ塀にし、フェンスも、庭が透けて見えるものにした。都心で庭を設け るというのは、贅沢というものだったが、蝦蟇が棲み着く庭に育ち、つくづく作って良かったと思っている。

 蝦蟇はもう、10年以上も棲み着いていて、春 になると決まって姿を現す。どうして、こんなところで、蝦蟇が生きていけるのだろう。不思議でならない。しかも、今年になって大中小小4匹も、棲み着いていることを確 認した。いったい、どこでオタマジャクシを孵化させているのだろう。何を餌にしているのだろう。

どうも、玄関近くの茂みが本拠らしい。しかし、結構、行動範囲は広いと見えて、庭はもち ろん、近くの路地や、家屋の後側、赤レンガの花壇の中を歩いているのを見かけるときもある。のっそりとしていて、私に気づいてあわてて逃げようとする動作 を見ても決して機敏ではない。近くを猫が徘徊している。人も通る。ついつい心配になり、帰宅すると、いつも玄関の周りを見回す。元気な姿を見つけるとほっ とする。こんなところで、生きつづけている生命力に、いつも感服している。数億年を生き延びた生命力はやはりただものではない。

 我が家に遊びに来 る孫達も決まって、玄関先に座り込んで蝦蟇を探す。いると、「可愛いね」と平気でさわったりする。最初は、怖がっていたのだが、我々が平気で触って見せた りするうちに、自分でも触れるようになった。蝦蟇の皮膚は、濡れているようにみえるが、案外乾いていて、嫌な感じはしない。

 

  棲み着ける蝦蟇 お出ませばおさなごも

今年もいたねとしゃがみ込みたり

 

蝦蟇だけではない。やもりも10年来棲み着いている。

 やもりは、居間の 明かり取り用のはめ殺し窓に姿を現す。部屋の中からみると、やもり独特のくにゃりと曲がった黒いシルエットが、外光をバックに鮮やかに浮かび上がる。五本 ある指の、小さな吸盤の一つ一つでさえくっきりと見える。蛾などの餌を追って、体をくねらせながら、垂直のガラス面の上を走り回る。春先に、姿を現すと、 今年も無事に冬を越してくれたと、安堵する。

 

磨りガラス越しにやもりの手の細き

 

 

 庭には、餌台を2台、居間から3メートルも離れないところに左 右7メー トルほど離して置いている。冬場、いろんな鳥が訪れてくる。四十雀、目白、鴬、ヒヨ、雀、鳩、ジョウビタキ、ムクドリ、尾長……。都心にしては、種類も多 い。餌台は、イギリス製で、日本野鳥の会で求めたものだが、赤い屋根付きの餌場に餌筒、それに水飲み場がついている。10年以上もたつので、色はかな り褪せたが、本体はまだしっかりしている。

    

餌台を清めて冬の庭となす

 

 餌筒には、ピーナ ツをむいて入れる。むき役は、初めから私である。鳥の情報網は、発達していて、ピーナツを入れると、すぐ集まってくる。四十雀は、筒の金網に両足で器用に つかまり、網の間から、巧みにつついて食べる。雀は、四十雀ほど器用でなく、台に立った姿勢のままつつくのだが、中には、片足金網につかまって食べるよう な雀もいる。

 

 ミカンやジュース などを出すと、目白が来る。鴬は時折姿を現すが、餌台にのるより、ツツジの蔭で落ち葉をつついたりしていて、目立たない。ヒヨは、パン切れでもふかし芋で も、ミカンでも何でも食べる口で、餌台では一番威張っている。近くの木の枝に身を潜めていて、やってきた四十雀や雀を追っ払ったりする。

 

餌台のヒヨと目交わす狭き庭

 

 どの野鳥も大変用 心深く、餌台の周りの木の枝で、しばらく様子を窺ってから、餌台にのる。餌をつつくときも、せわしなく周りを見回し、しばらくつつくと、また枝に戻る。

 

 四十雀や目白はつ がいでやってくることが多い。数組のつがいで現れ、周りの木の枝をさかんに飛び回りながら、順番で餌台に来る。こういうときは、さえずりがうるさいほど だ。

 

さえずりのけたたましくて行く春ぞ

 

 こんなに近くか ら、好きな鳥を観察できるのも、庭があればこそである。野鳥の習性にも自然詳しくなった。

 

生き物といえば、春には、モンシロチョウやアゲハ類も訪れる。夏ともなれば、耳を聾する ばかり蝉がなく。秋の虫の音はことのほか味わい深い。

 

まどろみつつ虫の音聞けばふるさとの庭に立ちおり亡母もおわす

 

 狭い庭とはいえ、 その営みは人智をはるかに超え奥が深く、興に乗って書き進めているうちに、紙面がつきたようだ。庭木や草花については、次回をお愉しみに。

 

(注)庭に歌心を刺激さ れ、これまで作った和歌、俳句は、結構多い。ここに載せきらない作品は、歌句会のページにまとめてお きましたのでご参照下さい。






我が家の庭の生き物たち(植物編)

(the bicycle November    2005 vol.16 掲載)

私の自然園

歌句会


 我が家の庭 は、新宿の高層ビル群が見えるほど都心に近く、猫の額ほどの狭いものだが、作って25年経ち、庭木はかなり大きくなった。

  春先、柿、梅、楓などの庭木の新芽が赤みを帯び始め、日ごとに膨らみを増してくると、冬枯れの庭もたちまち精彩を取り戻し、眺める者の心に何かと語りかけ てくるようになる。

       木の芽吹く庭の賑わい目が笑う


  新緑は、木々それぞれに微妙な色合いの違いがあり、どれも鮮やかで、日ごと、時刻ごと、天候ごとに変化するのを、毎春ため息をつきながら眺める。

        降 り続く雨にも明かし柿若葉

  秋の紅葉も悪くない。楓はもとより、柿、梅、銀杏などの落葉樹が秋の深まりとともに日ごとに色を変え、見事に紅(黄)葉していく。最後にははらはらと風に 舞い、庭を落ち葉で埋め尽くす。

  モチノキ、栃の木、ヒノキなどの常緑樹は、通奏低音のように庭の奥に控えているが、これとて、季節の巡りに応じて、新芽を吹き、枯葉を落とし、庭に彩を添 える。

  果樹類は梅と柿と夏みかんの三種あるが、25年もたったので、どれも実が取れるようになっている。庭の梅で毎年妻が梅干しを作る。脚立にのって梅をちぎる のは私の役目である。多い年には13キログラムも採れた。

       梅 の実のずしりと青き目の高さ

  手作りの梅干しは、やわらかく、なかなかうまい。血液サラサラ効果もあるというので、毎日のように食べる。孫たちも大好きだ。
 
 また、朝方、落ちている梅は、私が電子レンジで、コンポートを作ることにしている。梅特有の酸味が何とも言えない。
ヨーグルトにも良く合う。孫たちも口 をすぼめながらも美味そうに食べる。

  柿は結構甘い。ただ、肥料をやらないせいか、隔年しか実をつけない。今年は当たり年でいっぱい実をつけている。今から楽しみである。

       青 柿は葉陰に潜み雨止まず

  夏みかんは、昔ながらの酸っぱいやつで、田舎の庭にあった夏みかんを思い出しながら食べる。妻がマーマレードにしたこともあるが、口当たりがやわらかくお いしかった。

  春には、ツツジ、ジンチョウゲ、アシビ、サザンカ、藤が花を咲かせる。ジンチョウゲは香りも楽しめる。ただ、3本あったうち、2本は枯れ、残り1本も危う い。千両や栴檀(せんだん)は、赤い実をつけ、鳥が実をついばみに来る。

  このところ、体力に衰えた義父に代わって妻が花作りに精を入れ出した。玄関回りの花鉢、プランターはもとより、路地に面した赤レンガの花壇にもいつも数種 類の花を咲かせている。家庭菜園も始めたので、ピーマンや茄子、しそなどは、採り立てを食べられる。バジル、ミントなど ハーブ類の種類も増え、ハーブ好きのわたしには、こたえられない。

庭には苔も少 しむしてきた。庭に庭らしさが増したように感じられる。しかし、庭は放っておけば、たちまち雑草の繁茂するところと化す。妻はいつも草取りに追われてい る。庭木も放っておけば、たちまち風も日光も通さないほど繁ってくる。そこで、庭師をときどき入れるが、そこは本職、剪定後は庭が見違えたようにすっきり する。

           枝すきし庭透き透きと秋の風


           腕利きの庭師残せし柿ひとつ
           梢に熟し秋深みたり

  25年も付き合っていると、庭の一木一草が人生の伴侶という気がしてくる。この間に、庭木の構成にも変化があった。自然の理には逆らえず、沙羅や百日紅 (さるすべり)のように枯れたものもある。ピラカンサのように繁茂しすぎるので、やむを得ず切ったものもある。今、それらの木々を偲べるのも、次のような 歌が残っているからである。


           沙羅の花ただ一輪の庭涼し

           いずこよりタンゴの調べピラカンサ

          夏はまた我が庭先に火のごとく
          ノウゼンカズラの燃え盛る季(とき)

          百日紅枯れにし枝は白々と
          花咲き満ちしおもかげもなく



  自宅に庭があり、四季折々の自然に触れることが出来れば、心は慰められる。空気もうまい。雪景色、雨の音にも風情が感じられ、自ずと歌心も湧く。これまで 作った短歌、俳句を調べてみて、庭に絡むものが思いの外多いのに驚かされた。

          枕辺に終夜やさしき雨音の
          庭木慈しむごとく響けり

           ことさらに淋しき夜は蕗の葉の
          太き雨音慰めとする

  これからも、我が家の庭の生き物たちを友として、ゆっくり人生を愉しみたいと思っている。


  ところで、庭の片隅に、以前買ったMTBが、さび付いたまま寂しく放置されている。買ったときの思惑は、このMTBを駆って、近辺を走り回り、都会の自然 や風にも親しみたいということだったが、近隣の交通事情は多段ギア付のMTBを走らせるどころではなく、みすみすさび付かせてしまう結果となった。ここに 開陳したように生来自然好きなのだから、そのうち、車にも積める自転車に買いなおし、少し遠出して、野山を駆け巡り、自然をたっぷり楽しみたいものと思っ ている。そのとき、我が家の庭の生き物たちをめぐって身につけた観察眼が役に立つに違いない。



タイトル


マイホームシ アター

(the bicycle July 2005 vol.14 掲載)


Myhometheater
本文

昨年(2004年)11月末、ホームシアターが完成した。生来の映画好きを自認していたから、長年の念 願がやっとかなったわけである。それ以来、映画を見る機会が、急増した。

当初は、50インチの大画面、5.1チャンネルの音響効果に満足して、テレビ放映の映画・演劇・オペラなどから、地球・宇 宙・大自然、世界遺産、シルクロード、美術館巡り、鉄道の旅・紀行ものを主として楽しんでいたが、この3月、近くにTSUTAYAというDVDレン タル店があることを知って以来、週に3本ずつ、DVD映画を借りてきて観るようになった。火曜日が割引日なので、雨が降ろうが風が吹こうが深 夜だろうが足を運ぶ。3月以降、もう50本もの映画を観た。タイトルや感想を一々書き出したら紙数がいくらあっても足りないので、私のホームページ**のMY HOMETHEATERに 掲載した評点つき一覧表をご覧いただきたい。

**<http://www.linkclub.or.jp/~akybe/>

ホームシアターを作るからには、いいものにしたいと、慎重に検討した。「はじめて愉しむ ホームシアター」(光文社新書)も読んだ。経済性も考慮しつつ、しかも、買った後で、しまったと思わないレベルのもの。映画を観るからには、画面50イン チ、音響5.1チャンネルは必須条件だ。居間をこれ以上狭くしたくない妻の賛同も得られるもの。

こうした諸々の条件を満たすものとして、最終的には、パイオニアの50インチプラズマテ レビPDP-505HDL(チューナーは外付け)と、BOSEのLifestyle LS-35DVDの組み合わせに落ち着いた。初めは、スピーカーはそれまで使っていたステレオ・セットを 活用するつもりだったが、ヤマハのNS-1000モニターは、古臭いし大きすぎた。その点、このBOSEのスピーカーは、全高11センチときわめて小さく、五 個分でもさして場所をとらない。これに重低音を再現するベースモジュールがセット。音響専門のBOSE社製だけあって、音質は申し分ないし、臨場感も結構出る。

導入前には、必ずしももろ手を挙げて賛同していたわけでもなかった妻も、今ではすっかり 虜になり、一緒に映画鑑賞を楽しむばかりでなく、自ら色々とレパートリーを広げている。

DVDレンタル第1号は、「コールド・マウンテン」だった。アカデミー賞の監督賞・作品賞をとったこともあ るアンソニー・ミンゲラ監督の大作で、愛し合う男女が、南北戦争で引き裂かれ、数年後に、人間的に変貌を遂げて再会するというストーリーである。2月にた またま札幌の映画館で見た行定勲監督の「北の零年」とストーリー展開が似ていることもあり、自ずと比較してみる気になった。前者が、人物の変貌プロセスを じっくり描いているのに対し、後者は、「それから五年後…」と肝心の展開部分を飛ばしているので、再会後の男女の相克がいまひとつ盛り上がらない。これは 映画の基本ともいうべき脚本が悪いせいだろうか、費用も時間もたっぷりかけられぬ邦画界の制約のせいだろうか。

映画には、一つとして似たものがない。人生のように限りなく多様だ。個性も才能も豊かな 監督・スタッフ・俳優が、それぞれ独自のやり方で、自らの世界を創出しようとあらん限りの力を注いでいる。いい映画からは、その熱気・熱情がダイレクトに 伝わってくる。

DVDのメリットは、映像がきれ いで、音質も良く、5.1チャンネルで迫力・臨場感があり、音声・字幕の切り替え・組み合わせが自由自在、観たい 箇所にランダム・アクセスできることだが、それだけではない。収録時間に余裕があるので、本編に加えて様々な特別付録を付けられることである。

出演者がインタビューに応えて、役柄にどう取り組み、どういう気持ちで演じたか、監督の 演出をどう評価しているかを語ったものがある。監督自らが、全編にわたって制作意図を丁寧に解説しているものさえある。撮影現場の様子、監督の演出振り、 撮影方法・大道具・小道具・衣装・メイク・付曲の工夫、NG場面集などを見ると、どういう風に映画が作られ、一本の映画に、いかに多くの人が携わり、知恵 を出し合い、工夫を重ねたかが手にとるようにわかって楽しいし、映画への興味が倍加する。映画が総合芸術といわれる所以も初めて納得できた。

CGなどの映像技術の恐るべき進歩振りとそうした技術を駆使した映像の素晴らしさに驚嘆 する一方で、安易にCGに頼らず、出来るだけ、実写した映像を提供しようと様々な工夫を凝らしていることにも、驚かされる。例えば、映画「シービスケッ ト」は、伝説的な名馬の物語だが、真に迫った競馬のシーンを撮るために、大型車両に模型の馬を積み、騎乗した俳優を乗せて競馬場を実際に走らせて撮影した 現場が紹介される。「コールド・マウンテン」では、ルーマニアに一つの村を丸ごと作ってしまったという。

俳優や監督の名前も、一昔もふた昔も前のしか覚えていなかったのだが、毎週のように観て いると、全く別人になりきって登場してきても、この女優は「コールド・マウンテン」にも出ていた女優ではないか、などということで、二コール・キッドマン や、レニー・ゼルウィガーなど、今が旬の俳優の名前を覚えることにもなる。監督にしても同じことだ。

DVD映画を観ているうちに、CMで中断されるテレビの映画は、観る気が失せてしまっ た。ほぼ15分刻みで、感情移入していた場面からいきなり引き剥がされ、関係のないCMを見せつけられたのでは、楽しめたものではない。CMの多いテレビ を見て育った子供の集中力が長続きしないのも当然だろう。これは由々しき問題である。

映画は、映画館で見るのが最上であり、理想である。その良さを知らぬわけではない。しか し、理想を追えば、見る本数は自ずと限られる。50本も見ると、見逃していた中に、いかにいい映画がうずもれていたかがわかる。ホームシアターの良さは、 何と言っても手軽さだ。自宅にいながらにして、普段着のまま寝転びながらでも、時を選ばず、すぐ見られるのである。

1950〜60年代は、映画の黄金時代とい われ、名作が目白押しの時代であった。その最中に青春時代を送った世代として、映画好きを自認していたのだが、ホームシアターの開設で、生来の映画好きに また火がついたようである。

映画って本当にいいものですね。


 


タイトル

自転車を描く

(2005.4)

(the bicycle May 2005 vol.13 掲載)




水 彩画「アラスカ・自転車ツァー」へ
本文

この ところ毎年2月は水彩画描きに忙殺される。

私の 属しているクラブの会員作品展が、毎年3月第一週に開催され、水彩画を3点ずつ出品することにしている。人に見てもらうこと は励みになるのでここ8年間欠かしたことがない。ただ、この作品展の目録登 載締切日が1月中旬と早い。その時点で、ここ数年、1枚すら完成していた例がない。とりあえず、出品3点と登録だけはしておき、それから何を描くかを決 め、描き、何とか期日に間に合わせて来た。そのため、毎年2月は水彩画に忙殺されることになるのである。


 今年も、まったく同じだった。何とか
3枚のノルマを果たしたが、完成日は2月の2日、10日、24日で、綱渡りそのものだった。

昨年7月から自転車に関係する仕事に携わるようになった。 だから今年は、3枚のうち少なくとも1枚は、自転車をテーマにしたいともくろんでいた。だ が、気に入った絵柄が見当たらず、2枚描き上げた時点でも、まだもくろみ通り行くかどう か定かではなかった。

その ころ、毎月取っている「ナショナル・ジオグラフィック」誌の特別号が手に入った。裏表紙近くに、アラスカの氷河地帯を行く自転車ツーリングの写真を見つけ た。そのとき、これだ!とひらめいた。横長の写真だが半分に切り、左半分を縦長の構図でまとめ、左下に、大きなほうの自転車乗りを配置し、切り捨てた右半 分にある小さな自転車乗りを、右下にはめ込めば、いい絵になる!

早 速、デッサンに取り掛かった。絵の生命はデッサンにある。いい加減なデッサンからは決して良い絵は生まれない。しかも、対象が、自転車ツーリングである。 自転車はシンプルに見えるが、物理的に無理のないバランスの権化である。搭乗者の人体のバランスはそれ以上とも言え、人車一体のバランスをきちんと押さえ なければ、走っているように見えない。背景の氷河などとの調和も考慮しなければならず、デッサンには、たっぷり時間をかけた。

デッサンができたところで、前から予定していた二泊 三日の北海道旅行に出掛け、帰京後、着色を始めた。   絵の大雑把な構想はあった。遠景の雪を被った山々や氷河を薄めに、中景のお花畑をやや鮮やかに、 近景のツーリングをする人物をクローズアップして逞しく描く。絵から、清澄な風を切って走るツーリングの爽快さが感じられるようにしたい。

絵を 描くということは、常々、絵と対話することだと思っている。実際にデッサンしたり、着色したりする時間よりも、対話する時間の方が何倍にもなる。何度も数 メートル離れて絵全体を眺めながら、どんな構図にするか・したらよいか、どんな色にするか・したらよいか、繰り返し対話するのである。一旦描き始めると、 絵はそれ自体の存在感を持ち始め、自己主張を始める。その声に静かに耳を傾け、自分の意図だけを押し付けようとしないことである。前に引いた一本の線、前 に置いた一色の色が、次の線と、次の色を決めるようになる。それを無視して、自分の当初のもくろみ通りに描こうとしても、決していい絵にはならない。細部 はもう、絵自体、筆運、発色運に任せるよりない。対話とはそういうことだ。その対話が絵を描く、絵を創造する醍醐味でもあるのだ。

何と か会期に間に合わせた。そのいきさつが、「絵との対話が楽しい」と題して毎日新聞夕刊の「人・模・様」欄で紹介された(3月17日)。展示されたその日にこの絵を見て、譲って欲し いという人が私のオフィスに現れた。初めての体験なので嬉しかったが、お断りした。

今その絵は、オフィスの自室の正面にかけてある。私 は、来訪者にご披露して、自転車の素晴らしさをアピールすることに役立てている。何を隠そう、自転車を描く当初のもくろみが、実は、ここにあったのだ。

な お、この絵の写真を、制作プロセスともども、私のホームページ*に掲載しておりますので、ご覧いただければ幸いであ る。

*<http://www.akybe.net/>

 



touring


水彩画「アラスカ・自転車ツァー」へ